*Prologue*
あの夜、君には見えなかったかもしれない。
震えた声も、
飲み込んだ言葉も、それでも私は、
小さな歌にすべてを込めたんだ。

冬の夜の空気は凍えるほど冷たかった。
人々がマフラーを巻き、手をこすり合わせながら行き交う繁華街の片隅で、ひとりの少女がギターを抱えて座っていた。
18歳になったばかりの彼女は、小さな声で歌い始める。指先はかじかみ、声は震える。それでも、やめたくはなかった。
通り過ぎるカップルたち、笑い合う友人たち。
誰もが幸せそうに見えるこの街で、彼女の胸にはひとりの男の子への想いが募っていた。
――大好きで、たまらない。
けれど、いつもすれ違うたびに、胸が詰まってしまって、名前すら呼べなかった。
その想いが今、こぼれ落ちそうになっている。
彼を意識しはじめたのは、ほんの小さなきっかけだった。
高校に入学して間もないころ、勇気を出して始めた路上ライブ。
誰も足を止めてくれない冷たい夜、彼だけが立ち止まり、少し照れくさそうに「すごく、いい声だね」と言ってくれた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
それから何度か、通学路で顔を合わせるたび、彼は自然に「おはよう」と声をかけてくれた。
雨の日にギターを抱えて困っていたときも、さりげなく傘を差し出してくれた。
そんな優しさに、気づけば心が惹かれていた。
だけど、恥ずかしくて、素直になれなかった。
一度だけ、何かの拍子に連絡先を交換したことがあった。
でも――。
結局、彼女は一通もメッセージを送れないままだった。
嬉しくて、嬉しすぎて、どうしても最初の一言が怖くて、
スマホの画面を開いては、そっと閉じる日々が続いていた。
だから今も、彼の連絡先はただ、ポケットの中で光を待っているだけだった。
ただ遠くから見つめるだけで、彼の隣に並ぶことなんて、夢のまた夢だった。
ふいに、一粒の雪が彼女の肩に舞い落ちた。
顔を上げると、黒い夜空に白い光が静かに降り始めていた。
この季節になると、ふと思い出す。
去年の冬、雪に足を取られて転んでしまった日のこと。
痛みよりも、誰かに見られたかもしれない恥ずかしさで顔を伏せたそのとき――
少し離れた場所にいた彼が、駆け寄ってきて、手を差し伸べてくれた。
「雪の日は、何があっても大丈夫だよ」
そう言って、やさしく笑った。
胸の奥で、何かがふわりとほどけた。
目の前に広がる白い世界が、まるで神様が微笑んでくれているみたいだった。
――大丈夫だよ。君ならきっと、想いを届けられる。
そんな声が聞こえた気がして、彼女は空に向かって、そっと頷いた。
彼女の声は次第に力を帯び、透き通るような歌声が冬の街に広がっていった。
いつしか、通り過ぎていた人々の足が止まる。
彼女の奏でる歌に、立ち止まった誰もが、耳を澄ませていた。
――そして。
群衆の向こうに、ひとりの少年の姿があった。
彼女がずっと、想いを寄せてきたその人。
彼は、少し照れたように笑いながら、遠くから彼女の歌声に耳を傾けていた。
少女はまだ、その存在に気づかない。
ただ、ただ、心を込めて歌うだけだった。
やがて歌い終え、暖かい拍手が街に響いた。
彼女ははにかみながら、深々と頭を下げる。
そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、決意を込めて彼に連絡を取ろうとする。
そのとき。
背後から、スマホの着信音が鳴り響いた。
驚いて振り向いた彼女の目に映ったのは――
冬の雪の下、少し照れくさそうに微笑む、あの彼の姿だった。
驚きと恥ずかしさが一瞬、彼女の胸を締めつけた。
けれど、もう下を向くことはなかった。
弱虫だった少女は、もうここにはいない。
彼女はギターを抱え直し、小さな笑顔を浮かべて、そっと彼に向かって歩き出した。
白い息がふわりと宙に溶ける。
凍える夜空の下で、ふたりの物語が、静かに始まろうとしていた。
*Epilogue*
あの夜、震えながら歌ったあの一曲は、
確かに、君に届いていた。
まだ上手く言葉にはできないけれど、
きっとこれから、
少しずつ、伝えていくんだ。
白い夜空に、小さな歌が溶けていく。
ふたりの物語は、今、静かに歩き始めた。
*あとがき*
この物語をもとに、オリジナル楽曲「あの夜、君が聴いてたラブソング」を作りました。
歌と物語、ふたつの形で生まれた想いを、どうか感じていただけたら嬉しいです。
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